【夏休み特集】田原本の歴史を知ろう!(第2回)

みなさん、こんにちは!
京進スクール・ワン田原本教室 教室長の冨永です。
「【夏休み特集】田原本の歴史を知ろう!」と題して前回投稿から地元の歴史をひも解いていますが、今回は田原本の発展に貢献した人物の1人、平野長泰をピックアップします。

平野長泰(ひらの ながやす、1559-1628)は、尾張国(いまの愛知県)津島生まれです。
平野家は津島、平野郷の土豪として、鎌倉幕府の執権・北条氏の流れをくむ地元の有力者、津島十一党のひとつに数えられていました。
祖父の代から織田家に仕え、父・長治(ながはる)も信長に仕え、そして長泰は豊臣秀吉に仕えました。
司馬遼太郎著『権平五千石』では、秀吉が長浜で19万余石の大名になったとき、地元・近江や出身地・尾張から仕官してきた若者のうち、親の筋目がよい者は石取りの将校として召し抱え、そうでない者は足軽に、さらに20歳に達していなくても多少の縁故がある者は「台所で飯でも食いやい」という待遇にしたといいます。
そして、その中に平野長泰(当時の通称は権平〈ごんべい〉)がおりました。
1575(天正3)年に長浜城が完成し、その2年後77(同5)年、権平18歳のときのことです。
この「台所で飯」待遇の少年たちの中からは、大名に出世した人たちがたくさん出ています。
加藤清正、石田三成、加藤嘉明、福島正則…。
その後、権平は21歳で秀吉の近習(きんじゅう、=主君の側近で奉仕する役)となり、82(同10)年の本能寺の変で信長が斃(たお)れ、翌83(同11)年にいよいよ転機を迎えます。
そうです、賤ケ岳(しずがたけ)の戦です。
柴田勝家軍と秀吉軍のにらみ合いが続いていましたが、柴田軍の先鋒部隊が秀吉軍最前線の砦に攻撃を仕掛けたために、「待ってました!」とばかりに美濃大垣で待機していた秀吉本隊は、近江木之本までの70㎞を一気に駆け抜け、反撃に出ます。
その時に柴田軍に一番槍を付けたのが「賤ケ岳の七本槍」という7人の勇者たち(実は9人とも)なのです。
そして、その恩賞として福島正則は5,000石、権平を含めた6人は一律3,000石の知行を与えられます。
本能寺の変(1582年6月)→清須会議(同年7月)→賤ケ岳の戦(83年)→小牧・長久手の戦(84年)を経て、信長の後継者が秀吉に決まりました。
さらに、関ケ原の戦(1600年)、江戸幕府成立(03年)、大坂冬・夏の陣(14-15年)を経ても権平の知行は5,000石のままで、そのまま幕末の動乱を迎えます。
七本槍のメンバーでは、関ケ原で西軍について領地を没収された糟屋武則、大身大名となったものの改易された福島家・両加藤家、また明治維新まで大名家として存続した脇坂安治・片桐且元に、とかくフォーカスされがちです。
つまり、戦国乱世で武名で勝ち取った領地でも、争いがなくなった世の中では円満な領地経営や家臣団の統率が求められたということでしょう。
そのために改易された大名家はたくさんあります。
領地・領民をうまく統治できなかったり、家臣が急に増えて主導権争いから家臣団分裂やお家騒動が起きたりしていることからも、急成長のあとは組織がもろくなりやすいことが分かります。
権平が他の七本槍メンバーと比較して少禄ではありますが、賤ケ岳でチャンスが巡ってこなければ、のちの5,000石の知行も得られていませんし、不運にも戦死していた可能性すらあるわけです。
権平もその後継者たちも、少禄のため悶々と過ごしたかどうかは分かりませんが、自分に関係のある人たちが幸せであればそれでよかったのではないか、と私には思えます。
自分の立身出世のみ追い求めて、最終的に改易となってしまえば、大事な家臣たちも失業してしまいます。
急速にふくらんで破綻(はたん)する、…バブル経済みたいなものですね。
その時代に求められる存在理由を明確にしないといけないのは現代も同じで、次々に飛び込んでくる情報を取捨選択して行動に移し、自分と自分が属する組織(家族・友人など)や集団(会社・学校・地域など)をよりよい方向に導いていく力が必要であるといえます。
ということで、時代が必要としているものをしなやかに取りいれつつも、信念をもって自分らしく生きていけたらいいですね。
京進スクール・ワン田原本教室では、学習を通して現代社会をしなやかに、そして自分らしく生き抜くための知恵や所作が身につくように、と日々考えを巡らせています。
「やり始める」から「やる気」になる、「新学期スタートダッシュ講座」は9月1日(水)スタートです。
新学期からガンバロウ!と「やる気」になったアナタは、ぜひ教室の門をたたいてください。

ところで、その後の平野家は領内の支配体制を固めて善政を敷き、さらに商業に力を入れて、田原本を大いに発展させました。
平野長泰は『権平五千石』では目立たない男として描かれたものの、平野家は旗本ながら交代寄合(=知行3,000石以上の旗本で大名待遇、参勤交代あり)として幕末を迎えたわけですが、永年存続した理由として少禄であった(≒目立たなかった)だけではなく、①領地経営に優れ、②文化人としての素養を持ち合わせ、③細川家や公家の舟橋家が後ろ盾があったこと、などを挙げています(田原本まちづくり観光振興機構資料より)。
そして、1868(慶応4)年、明治新政府による実高への石直しによって10,001石となり、最後の大名に昇格しましたが、それは71(明治4)年に廃藩置県となる3年間だけでした。
平野家の名前は、町西部の「平野」という地名に残っており、善政を敷いた名残だといわれています。

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投稿日:2021.08.24